地図上の「境」にはロマンが詰まっているという。
境界観察の達人、西村まさゆきさんの案内で、中央区と千代田区の区境を歩いて、境目を示す手がかりを探してみました!

編集協力=小野 和哉(都恋堂) 撮影=荒井 健、中村 宗徳

 ヒトが社会的動物であるかぎり、境界は必ず存在する。そして、ヒトの活動が盛んな場所ほど、複雑な境界が引かれていく。
 境界にはグレードがあり、そのグレードによって様子も違ってくる。一番高いグレードは国境だろう。国境よりもう少し下のグレードの境界は、日本では県境(都道府県境)ということになるかもしれない。さらにその下が市区町村境。そして、区境ぐらいまでになると、地面に線が引いてあるわけではないので、見た目では分からないところも多い。しかし、よく観察すると「境目だからこうなっているのか」と、気付くところもある。さらに言うと、区境といえども、それなりの歴史的経緯がある場合も多く、見過ごすにはもったいない境目もたくさんある。
 東京駅周辺にも興味深い境界線が存在している。千代田区と中央区の区境だ。
 千代田区の神田地区と中央区日本橋地区を分ける区境は現在、細い路地(写真(7))となっている。この路地はもともと竜閑川(りゅうかんがわ)と呼ばれる水路だった。竜閑川は、元禄時代、町民たちの負担により掘削された人工の水路だ。この川は、神田と日本橋の町の境目とされ、1947年(昭和22)、神田区と日本橋区が千代田区と中央区になったときも区境として残った。つまり、この境目は、江戸時代の町の様子を伝える文化遺産である。
 竜閑川と外堀の合流地点には、竜閑橋の親柱(写真(11))が残っているが、この地点を地図でよく見てみるととても興味深いことがわかる。山手線の内側に、テニスコートの半分ぐらい、ほんのちょっとだけ中央区が入り込んでいるのだ(写真(10))。昔の地図を見てみると、鉄道の線路が、町割りや水路など境界となる場所を一切無視してズバッと引かれおり、そのため、中央区が山手線の内側に少しだけ入り込むことになったようだ。(続く)

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    古地図で地理を確認していざ、出発!

    古地図アプリ『東京時層地図(iPhoneアプリ)』なども利用しながら、区境散歩を始めます。

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    神田八丁堀跡の路地を外堀方面に向かって路地を進んでいきます。もともと川だったため、路地の地下には下水道管があるようです。

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    神田八丁堀跡のある公園は「地蔵橋南東児童遊園」という名前。古地図(昭和戦前期 1926年ごろ)を見ると、確かに昔ここに「地蔵橋」という橋があったことが分かる。

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    歩道橋で首都高を越えると、またも公園。「竜閑川埋立記念」の碑が。区境らしく「中央区」「千代田区」の文字が並ぶ。
    竜閑川は防火のために掘った人工の川だったが、ドブ川の様相を呈してきたため、衛生上の理由で埋め立ててしまったらしい。

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    しばらく区境を歩くとレトロな丸石ビルディング(表に回って撮影)。

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    「今川焼き」の発祥地という説もある、今川橋の碑を発見。古地図(関東大震災前1916年ごろ)にも名前が現れる。

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    道の両脇に千代田区と中央区、異なる区の住居表示看板が。境界絶景ポイント。(右が西村、左は編集部の小野)

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    JRのガード名には、古い地名や消えた橋名がそのまま残っている例が多い。

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    居酒屋が立ち並んでいた今川小路は再開発に向けて今は様変わりした。

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    竜閑川と外堀の合流地点は、中央区の北西の先端。そして、山手線の内側で唯一の「中央区」の区域となる珍しい場所だ。

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    千代田区と中央区の突端には、龍閑橋の親柱が残る。日本最初の鉄筋コンクリートトラスの橋だ。

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    日本橋川沿いに歩き、東京駅方面へと向かう。日本銀行と川を挟んで、新紙幣で今話題の渋沢栄一の銅像が。

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