魚河岸の聖地 日本橋の未来

東京の魚河岸といえば、築地から移転した豊洲を思い浮かべるだろう。
しかし江戸時代から関東大震災までの約300年もの間、魚河岸は日本橋にあったのだ。
市場なき今、その名残と現在を、探りに行った。

編集協力=大八木 宏武(都恋堂)、篠賀 典子 構成・取材・文=内藤 孝宏 撮影=荒井健

「一日千両」が動いた江戸名所
 徳川家康が江戸入府のとき、一緒にやって来た摂州佃村(現大阪市西淀川区佃)の森孫右衛門一族の漁師らは佃島を与えられ、江戸近辺での漁業権を握った。その見返りとして彼らは毎日、江戸城に魚を納めたのだが、あるとき、残った魚を売ることを許され、日本橋のたもとで販売した──。これが江戸・日本橋魚河岸の起源である。
 実際には幕府への納魚ではもうけにならなかったが、江戸中の鮮魚や関東、中部、東北地方の海産物を一手に引き受けることによって、市場は日本橋から江戸橋の北側に沿った一帯にまで拡大するほどに。その繁盛ぶりは、芝居町、吉原と並んで「日銭千両」が動くと称される江戸の名所となった。
 その繁栄は明治の時代も続いた。明治22年(1889)、大規模に行われた市区改正の際、箱崎、中州の島一帯への移転案が持ち上がったが、江戸からの伝統を守れとの声にねじ伏せられたほどに。
 そんな移転話に決着をつけたのが1923年(大正12)の関東大震災である。魚河岸一帯は一瞬にして焦土と化し、業者たちは築地にあった海軍の技術研究所跡地に商売を移して、そのまま戻らなかった。

再開発で日本橋はどう変わる?
 今の日本橋は、頭上に高速道路が通っていて、川岸を見下ろしても、扁平な形をした平田船が魚をいっぱいに積んでズラリと並ぶ、往事の姿は影にも見られない。
 この高速道路が日本橋の上に通ったのは、先の東京オリンピックの前年の1963年(昭和38)のこと。
「先代の親父はよく言ってましたよ。『反対する間もないうちに建っちまった』って」
 と語るのは、140年以上前から日本橋に店を構える『吉野鮨本店』5代目店主の吉野正敏さん(52)。
「戦後の焼け野原から立ち直り、日々の暮らしが豊かになる中、江戸の伝統とか、街の景観とかに気を向けるヒマもなかったってことでしょうね」
 実は日本橋には、魚河岸に起源を持ち、今も変わらず商売を続けている老舗が多い。かつお節の『にんべん』やのりの『山本海苔店』のように世界にマーケットを持つ老舗もある。
 現在、首都高を地下に移して、日本橋を再開発する大規模都市計画が進んでいるが、「昔の日本橋が戻ってくる」という声もあれば「近代的なビル街になって昔の良さがなくなる」という声も上がる。
「だから今、会合で店主たちが集まると熱い議論になりますよ」と言う吉野さんは、本業の傍、日本橋料理飲食業組合の青年部「三四四(みよし)会」の元会長であり、現在は日本橋六之部連合町会青年部「日八(にっぱち)会」の会長を務めている。
「江戸の魚河岸があったから、今の日本橋がある。たくさんの人が行き来することで、親しみのある街ができたと思っています。その良さを守っていけば、どんなふうに変わろうと日本橋は大丈夫。多くの人に『第二、第三の故郷』と思ってもらえる街にしないとね」
 この心意気は、江戸の昔から変わらないものの一つに違いない。

    • 江戸~令和、日本橋魚河岸の変遷
    • 江戸~令和、日本橋魚河岸の変遷
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    江戸~令和、日本橋魚河岸の変遷

    日本橋魚河岸の繁盛ぶりを描いた、国安作「日本橋魚市繁栄図」。
    国立国会図書館蔵

    明治44年
    1911年(明治44)の魚河岸の午後の風景。右端に「寿し」ののれんの掛かった屋台が見える。/写真提供:中央区立京橋図書館

    大正時代
    大正時代の日本橋北東の魚河岸。左側の建物は魚納屋。/写真提供:中央区立郷土天文館「タイムドーム明石」・(東京名所)魚河岸

    現在
    大正時代の写真と同じような角度で見た現在の風景。左岸には魚市場発祥の地と記す碑が立つ。

    往時をしのぶ、「日本橋魚市場発祥の地」の碑。

    • 『𠮷野鮨本店』と「トロ」誕生秘話
    • 『𠮷野鮨本店』と「トロ」誕生秘話

    『𠮷野鮨本店』と「トロ」誕生秘話

     1879年(明治12)、魚河岸に隣接する屋台としたスタートしたという『吉野鮨本店』は、ネタに初めて「トロ」を取り入れた店としても有名だ。
    「昔は船の上に冷蔵設備なんかありませんでしたから、遠洋で取れたマグロは、河岸(かし)に揚げられる頃には傷みが始まってました。特に脂身の部分です。ウチは屋台が出自の店ですから高級店に負けないよう、傷んでない部分の脂身を何とか安く調達して、お客さんに提供したのでしょう。ちなみに、口の中でとろける食感を『トロ』と名付けたのは店主ではなく、お客さんだったといいます」(吉野正敏さん)

    煮切りしょうゆを付けて供される。「トロを続けて頼んだら野暮だとか、ウチでは言いません。好きなネタを好きな順番で好きなだけ食べてほしいですね」と吉野さん。

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    • 老舗の歴史もわかる魚河岸年表
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    老舗の歴史もわかる魚河岸年表

    1590年(天正18)◎徳川家康、森孫右衛門一族に漁業権と土地を与える。
    慶長年間(1596~1615)◎孫右衛門の長男、森九右衛門が日本橋本小田原町に魚河岸を開設。
    1688年(元禄1)◎『神茂』創業。魚の販売益を商人たちに貸す商売をはじめ、後にサメを使った半ぺんの製造販売業を開始。
    1699年(元禄12)◎『にんべん」創業。「現金掛け値なし」の現金販売を実践し、成功。
    1810年(文化7)◎食事処『樋口屋』開業。40年後、3代目店主が『弁松』に転業。
    1849年(嘉永2)◎『山本海苔店』創業。後に2代目山本德治郎が味つけ海苔を開発する。
    1879年(明治12)◎『吉野鮨本店』創業。魚河岸の屋台から、3年後に店舗を構える。
    1889年(明治22)◎『蛇の市本店』が屋台として営業開始。旧屋号は「蛇の目鮨」だったが、常連客だった志賀直哉の命名で現在の店名に。
    1923年(大正12)◎関東大震災で日本橋魚河岸は焼土と化し、海軍の技術研究所跡地の築地に魚河岸が移転する。
    2018年(平成30)◎魚市場が豊洲に移転する。

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